台北生活の日記

愛玉の立ち飲みから、植物の父・牧野富太郎にたどりつく

基隆夜市に賑わいが戻った端午節の連休、友達と気になる屋台をホッピングしてから、しめに茶碗で冷たい愛玉を立ち飲み。焼き物、揚げ物の後はさっぱりした愛玉がいいねえと涼んでいると、
「愛玉は日本人が見つけたんだよ」
とお店のおじさんが言いました。
謎めいたことばが気になって調べていくと「雑草という名の植物はない」で知られる植物の父・牧野富太郎にたどり着き、池波正太郎まで現れて、まだ読んでいなかった池波の本を手に取りました。
基隆へ遊びに行っただけなのに、色んな所へ流れて行ったので、書き留めておきます。

 

この日は友達と台北駅で待ち合わせ。午前中から基隆へ出かけ、カフェに寄ったり海へ行ったりしてから、夕方には夜市で焼き餃子「鍋貼」やカレー味の炒麵を食べ歩き。ミニ台湾ソーセージのお店の行列にも並びました。

基隆・廟口夜市の北平鍋貼は焼き加減が最高基隆・廟口夜市で焼き目がかりっと香ばしい鍋貼に、やっと出会えた。 台湾の焼き餃子は味は美味しくても「ふにゃ」っとしていて、なにか物足りないと感じることが多かった。台湾で暮らす日本人の友達と「焼きが足りねえ」と嘆いていたので、「これは!」と驚いてしまった。...

 

並んでいる間、隣のお店の前で若いお兄さんたちがお茶碗で何かを飲んでいるのがとても気になりました。
近くには冷たいスムージー「冰沙」の有名店やドリンクスタンドもひしめいているのに、クラッシックな平たい茶碗で何を飲んでいるのかな?
「映え」を求めるでもなく、静かに茶碗から飲んでいるたたずまいに惹かれてしまう。ソーセージを食べてからのぞくと、それはシンプルな「愛玉冰」。持ち帰りではなく店先で飲むときには、お茶碗で出されていました。

焼き物、揚げ物を食べた後の仕上げに愛玉冰

 

「愛玉」は台湾特有の植物由来、揉むとゼリー状になるので、檸檬と合わせてさっぱりと食べるのが一般的です。むくみや体内の湿気、暑気払いに効果があるといわれるので、夏の疲れやデトックスを期待しつつ。

平たい茶碗に冷たい愛玉。檸檬シロップ入りで、さっぱり。暑い中歩き回り、焼き物、揚げ物をあれこれ食べた後のしめに、柔らかいのど越しの愛玉はぴったりです。

 

廟口愛玉
住所:基隆市仁愛區仁三路40號45攤位

 

愛玉子を台湾で発見した植物の父・牧野富太郎

 

時々、日本から来た人たちに「オーギョーチーが食べたい」とリクエストされます。「オーギョーチー?台湾語?」と首をかしげ、「愛玉子」とわかって驚いた。台湾では一般的に「アイユー」と中国語で呼んでいるけれど、なぜ日本では台湾語で広まったのだろうね。
愛玉冰を立ち飲みしながら友達とそんな話をしていると、お店のおじさんが
「愛玉は日本人が見つけたんだよ。美容にいいから、明日べっぴんになってるよ」
と言いました。
「これ以上綺麗になったら罪だわ」
笑いつつ、べっぴんの件は自己責任と多様な意見があるので置いておき
「愛玉は日本人が見つけた」
という言葉が気になりました。

愛玉の学名につく「Makino」の文字

調べてみると、1904年に牧野富太郎が台湾・嘉義で見つけた植物を新種と記録した資料がありました。日本語の資料では(Makino)の部分が省略されているけれど、英文や中文では、愛玉子の学名を「Ficus pumila var. aekeotsang (Makino) Corner.」と記載しているのです。
「雑草という名の植物は無い」という言葉が有名な、植物の父と呼ばれる牧野富太郎が、台湾で愛玉を新種の植物と発見したとは。

愛玉の実の中身。揉みだしてゼリー状になったら、冷やして甘い檸檬シロップとともに。

 

牧野富太郎は1896年10月20日、基隆港から台湾へ上陸し、一カ月以上滞在したという記事があります。日本政府から出た出張命令の記録も残っていました。そこから1904年まで、この時代には調べたり整理をしたりする時間が必要だったのかもしれません。

池波正太郎がひきつけられた牧野富太郎の眼

愛玉は1910年代、大正時代には台湾から日本へお土産に持ち帰られていたと新聞記事が残っていて、驚きました。
また、昭和になり、池波正太郎はエッセイ「池波正太郎の銀座日記」で、谷中で食べた「なつかしい愛玉只(オーギョーチー)」と書いています。「50年ぶり」だったとも。その店では「子」ではなく「只」と表記していたのかな。今でもあるのでしょうか。

 

ここ数年の「台湾ブーム」で、「愛玉をオーギョーチーと呼ぶのがおしゃれ」みたいな流れがマスコミに作られたのかな…と私はうっすら考えていました。まさか大正、昭和から「愛玉子」がすでに日本で知られていて、オーギョーチーと呼ばれていたとは。しかも日本の植物の父がそれを見つけていたなんて。知らなかった。何も知らずに「さっぱりして、蒸し暑い台湾の夏に最高」と、そこにあるのが当たり前のように、気にせず、素通りしていました。

 

池波正太郎が牧野富太郎そのひとを描いた作品は、短編集「武士の紋章」に収められています。
池波正太郎の本は、一生のうちにゆっくりと確実に読んでいこうと思っていました。その池波が、牧野富太郎のポートレートの眼にひきつけられて、芝居や小説を書いた。黒田如水、真田幸村などを描いた小説とともに編まれている。牧野富太郎という人に、興味を持たずにはいられません。

牧野富太郎記念庭園(東京都練馬区大泉)
http://www.makinoteien.jp/
高知県立 牧野植物園
http://www.makino.or.jp/dr_makino/

これは個人的な余談ですが、私の父方の祖父母が練馬にいて、私の本籍はこの「牧野富太郎記念庭園」の近くです。でも、今までその庭園のことを知りませんでした。牧野富太郎は1957年没、私が大泉に行った頃にはもうすでに亡くなって久しいし、祖父母や両親からその名前を聞いた記憶もありません。もしかしたら、聞いても覚えていないだけなのかもしれない。
祖父母も亡くなり、本籍地だけ残っているものの、大泉に行くことはもうないと思っていたけれど、日本へ行けるようになったら、この庭園はぜひ訪れたいです。

 

この日も基隆の港を見て、「終戦後、ここから日本へ引き揚げて行ったのだな」と考えていました。
それよりもずっと前に、愛玉を採集した牧野富太郎も、この港から台湾に入り、ここから日本へ帰って行った。
今さら過去へ呼び戻されるような、知らずにいたことを取り戻しにいくような、不思議な流れ。台湾では時々、思いがけず、そんな流れに巻かれていくことがあります。いまのところ、牧野富太郎の自叙伝を読んでも、台湾へ来た時の回想や記録には、たどりついていません。でも、池波正太郎の本の中に少しだけ台湾から戻った富太郎と家族の描写がありました。小説としての創作なのか、富太郎本人や家族から聞き取ったことなのかはわからないけれど、台湾でタカサゴユリの群生を見て驚喜したこと。お土産は娘にオルゴールの置時計、奥さんには花簪。もしそれらの台湾土産がまだ残っていて見ることができるなら、どんなに良いだろう。
何年か前の夏、夜の陽明山で台北市内へ帰るための車を待っている間、あたりにみっしりと咲いている白いユリの群生が少し怖くて、でも目を離さずに見ていたことを思い出す。富太郎が見たユリも、あんな風に咲いていたのかもしれない……。
連休にちょっと基隆まで遊びに行っただけなのに、なんだかずいぶん遠くへ行ったような気がします。

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mimi
台北在住のライター/コーディネーター。 長年暮らした香港から、猫を連れて台北へ移住しました。 台湾と香港に関する現地情報の執筆や、撮影手配などの仕事をしています。 |Instagram| |Tweitter| |Profile| |Contact|