香港映画の新作を劇場で見るのは、何年ぶりだろう。
東京国際映画祭と香港映画祭が重なった、2024年10月の終わりから11月の週。
「破・地獄」のチケットをとったのは、久しぶりに会ったいとこが香港に来た時のことを思い出したから。
あの日、銅鑼灣で一緒に飲茶をしながら
「俺、香港映画ならMr.Booが好き。マイケル・ホイ面白いよな」
といとこが言って、店を出たあとエレベーターでそのマイケル・ホイ氏ご本人と乗り合わせた。驚きのあまり口をパクパクさせる私に、「どうしたの?」といとこは怪訝顔、エレベーターを出てから「あんたのマイケルがそこにいるよ」と伝えると
「香港すげえ…」
いとこは呆然と、彼の後ろ姿を見送っていた。
狭い街で、買い物や食事中に香港のスターや有名人に遭遇するのは日常茶飯事。それでも、あまりの偶然に私も一緒に「すごいよね香港」と呆然としたのを思い出して、マイケル許冠文が出ている映画を観に行ってみようと思い立った。
2024年の初めに撮影されたという「破・地獄」。
準備に時間をかけ、撮影から公開までの期間の短さは、香港のリアルタイムを観ることができるときめきがあった。
物語の始まり、主人公の道生をウエディングプランナーから葬儀社へと転職を導き、もうひとりの主人公の文哥、ふたりをめぐり合わせる「明叔」を演じたのは、秦沛。
私があれこれ香港映画を観ていた頃、彼は専ら悪役で、演じた男の卑劣さや厭らしさは思い出すだけでも顔が歪むほど。でもこの映画の明叔は、穏やかできっぱりとした人情に篤い、素晴らしい香港のおやじだった。あの秦沛が元気で存命で、好いひとの役で香港映画を支えている。それだけでもう、映画館のスクリーンを観ながら泣けてしまった。
場面は九龍サイド、葬儀社が密集する紅磡。あの辺りはいつも空が曇っているような気がする。香港の事情をあまり知らない日本人の同僚が、煙突のある建物の近くに部屋を借りていた。オフィスで彼女とすれ違うと煙臭ささ感じ、たばこを吸うの?と尋ねて初めて、紅磡のあの辺りに住んでいるのだと知り、ああそれで…と腑に落ちたことがある。
葬儀社を訪れる人たちの事情、棺桶の形、「破地獄」という儀式。そういえば私、香港でお葬式には一度も出たことがない。結婚式は数えきれないほど出席した。お香典を渡したことはあるけれど、儀式そのものは、映像やニュースでしか知らなかった。
今年、母を看取って送った。私は喪主を務めるのが初めてだったので慣れず至らず、戸惑うこともあった。葬儀で懲りたので、四十九日や納骨にお寺のお坊さんに依頼はしなかった。仏教のみならず宗教的なことは一切排除すると私は宣言し、家族や親類はそれを受け入れてくれた。
映画の中の香港の人々は、亡くなった人を送るためにまじめに取り組んでいた。儀式としての道教、息子をいい学校に入れるために受ける洗礼、地獄ではなく良い場所へいくための宗教なのかなと、ぼんやり考える。死を受け入れられない場合に行う儀式や、お別れをするための手順。
私は母の最期の10日間に付き添い看取ったので、もう何も悔いがなかった。母がどこへ行くのかは、母が決めることだと思えた。故人にも送る側にもなんの親しみもないお経が響くのは、とってつけたように奇妙に思えた。それらの儀式は、まったく母や、私たち家族の在り方には関係のないことだった。
でも、香港では葬儀を重んじる人々がいる。
物語の中の兄と妹には破・地獄、ラスト・ダンスの儀式が必要だったのが、なんのこだわりもなく理解できる。
「香港はまだこういう話し方をする人がいるんだ」
「こういう声で怒鳴る男、いるいる」
「ああやって乗り込んで来る女の人、いたなあ…」
映画は広東語だけで、香港だけで成り立つ物語だった。
よその人や言葉にかき乱されず、香港だけで語られていく。
もう5年香港の地を踏んでいない私は、懐かしさと、まだ香港はこうなんだという安心感を、映画を見ながら感じていた。
香港が恋しい。好掛住香港。
涙と鼻水と笑いにまみれてスクリーンを見上げながら、何度もそう思った。
プロフェッショナルで頑固爺の文哥。許冠文、劇中ではほとんどしかめっつらだった彼が笑顔になる。矍鑠と筋の通ったかっこいい香港のジジイそのもの。
コロナ禍で負債を抱えて葬儀社に転職した道生。黄子華、つかみどころが無いようで、心ある彼が生きている人のために、プロフェッショナルなっていく。
物語の中の死者たちは、どうしてこのような姿になったのか、詳細は語られないこともある。語られなくても、生きている人たちの様子や話し方で、こうだったのだろうとおよそのことはわかる。その描かれ方の温度やトーンも、抑揚が強すぎずに良かったと思う。2024年だから有り得るお別れのエピソードもあった。かと思えば、1990年代に現実に聴いたのとまったく同じ、罵倒のことばも。
上映後にティーチインが行われ、許冠文、黄子華、衛詩雅、監督と脚本・プロデュースもした陳茂賢が登壇。客席にいた朱栢康も後半に呼ばれて飛び入り参加した。
許冠文、御年82とは思えぬしゅっとしたデニムの長い脚。ダウンジャケットも、ありがちな「香港人の寒さ凌ぎ」ではなく、お洒落。ヒョウ柄のキャップに負けない、むしろ従えてしまっているのはマイケル・ホイの年輪の厚みゆえかしら。あの日、銅鑼灣のエレベーターで遭遇した時はスーツ姿で、それも素敵だったな。
日比谷シャンテは、香港人の観客も多かった。香港では正式公開前、わざわざ東京へ観に来る人もいたのだとか。終わって出口に向かってもなかなかドアが開かず、流れが良くない。私の前にいた香港人のふたり連れが
「なんでこんなに待たされる」
「旺角の百老匯だってこんなもんだろ」
とひそやかな声で話しているのが聴こえた。百老匯なんて懐かしい。あの頃、みんな映画館で映画を観たね。夜遅くに終わっても外に出ればまだ開いているお店も多いから、軽く夜食を食べてぶらぶら歩き、ミニバスやタクシーで家へ帰った。
映画館を出ると、黒塗りのバン。黄子華がファンに取り囲まれていた。ふうん、と思ってふと見ると、もう一台のバンからヒョウ柄のキャップがのぞいていた。急いでそちらにいくと、窓を開けて笑顔のマイケル・ホイ氏。
「許生(ホイさん)」
思わず声をかけて近づくと、握手の手を差し出してくれたので呆然と握り返し、見たばかりの映画の感想を、演じた本人にひとこと、ふたこと話し
「香港が恋しくなりました」
と伝えると
「そうか」
と微笑んだマイケル氏、
「日本に来て、もう長いのかい?」
香港に20年住んだあと12年台湾にいて2年前に日本に帰ってきました、なんてことは言わなかった。ただ、「私は日本人です」とだけ伝えた。
香港すげえ。あの日、銅鑼灣で呆然とマイケルの後ろ姿を見送った時と同じ。見たばかりの映画の感想を、演じた本人に伝えることができる幸運。東京にいようとも、「破・地獄」の映画の力、香港のパワーは降り注く。
東京国際映画祭でのティーチイン
破・地獄 予告編
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