2020年6月30日夕刻から夜にかけて、香港の友人や知人、著名人のSNSには暮れていく香港の夕景の画像が多くアップされていた。さよなら香港、Good by Hong Kongなどの短い言葉、あるいは「生きてさえいれば、希望はある」という、振り絞るような言葉とともに。
23時には、香港特別行政区行政長官の名前で、「國家安全維持法」が公布された。
あけて7月1日の朝から、私は台北から電車に乗り、淡水へ行った。
少し調べたいことがあって、出かけるタイミングを計っていたら、この日になった。急ぎではないから、今日でなくても良かった。でも、家に居たらあれこれ見たり考えたりしてしまう。今日は海の近くへ行くべきだと思った。
台北駅で淡水線に乗り換える時、日本の友達から短いメッセージが届いた。1997年7月1日、香港が中国に返還された日の夜に、一緒に尖沙咀へ出かけた友達。
初めて歩行者天国になったネーザンロードを、私達はヴィクトリア湾に上がる花火を観るために歩いた。夏服の若い警官も、人ごみの中を見張るように仏頂面で歩いてた。香港に移り住んだ最初の夏の夜、制服の警官に声をかけられ警察車両で家まで送ってもらったことがあるので、私は彼らに物怖じはしなかった。それに、香港では広東語をしゃべる日本人とわかれば、そう悪くない対応をされる。私達は警官に「阿Sir~」と話しかけ「帽子のシンボルも変わったの?」「見せて見せて」とせがんだ。警官は仏頂面のままかぶっていた警帽を脱いで、私達に差し出した。「わーい」「ありがとう」と私達ははしゃいで見せたけれど、Royal Hong Kong Policeの文字が消え、王冠がバウヒニアの花に変わったのを見て、息をのんで押し黙ったのを覚えている。
英国から中国への返還の儀式も、友人達とテレビで見ていた。大雨が、岸からヴィクトリア湾へ崩れて溶けるのではと不安になるほど降っていた。激しい雨の中で傘もささず、身じろぎもしないチャールズ皇太子と、当時のパッテン総督の佇まいは凄みがあった。この儀式も、みんな黙って見ていた。沈黙に耐え切れなかった誰かが
「チャールズ皇太子の、御髪が」
と言って笑いが起こり、ようやく息を吹き返したようにおしゃべりを始めたっけ。
英国軍の一糸乱れぬパレードには、別の意味で固唾をのんで見守りため息が出た。それに引き換え香港側のパレードは足並みがそろわず、不細工だった。香港バレエ団の公演を観るたびに、バラバラの群舞に「自由だな」と感じたのを思い出した。香港では、儀式でさえ足並みを揃えて見せる概念がないのだな、と。
あの日一緒に過ごした友達も私も、もう10年以上前に香港を離れている。時折連絡は取り合うけれど、返還記念日に「今日は7月1日だね」と話題にしたことは、今まで一度もなかった。
23年目の返還記念日に、台湾当局は「台港服務交流辦公室」を設立した。
台湾が香港人の移住受け入れ策 専門窓口を設置 「実際的な支援と協力を」
今年の4月下旬、台北に「中山銅鑼灣書店」がオープン時には蔡英文総統から花が送られ、先月には店舗を訪れる様子が報道されている。
香港から台湾へ移ってきた「銅鑼灣書店」の林榮基氏を支援したのは、台湾のクラウドファンディング。銅鑼灣書店を台北に開くため、カフェや書店、文化人、一般の人たちも支えていると聞く。
「わざわざ総統が銅鑼灣書店へ出向くなんて、台湾を国外へアピールするパフォーマンスじゃないの」
と考えた人もいた。
私も、「そこまでする?」と驚いた。
どうしてそこまでする?
台湾で本を読む自由、ものを言う自由に圧力をかけられていたのは、そう遠い昔の話ではない。「禁書」と当局が決めた本を読んだだけで連れていかれて、帰ってこなかった人たちがいた。台湾の知人や友人からうっすらと、色々あって、おじいさんが職を変えたとか、国外へ行ってしまった話は聞く。
発端となった二二八事件の概要を日本語で説明する資料には、比較的簡単にアクセスできる。けれども、それでどうなったのかは、それから何があったのかは、台湾でもまだ語られにくい、とてもデリケートな事柄のように思う。2年くらい前の中元節、亡くなった人の魂がこの世に返ってくると言われる季節に台湾の大手スーパーマーケットが「連れていかれた人たち」を思わせるCMを作って、ちょっと問題になった。なぜ放送を打ち切り動画を削除しなければならないのか、私は今でもよくわからない。「あの頃のこと」を調べ込んでいない、理解を深めてはいないから、ここで書くのは控える。
でも、とっつきにくい、触っちゃいけない案件と敬遠しているだけでは面白くない。映画から入ってみるのは、ひとつの方法かもしれない。1時間45分で「あの頃、1960年代のさわり」に触れるなら、2019年の台湾映画「返校」。さらに4時間かけてもかまわなければ、1991年の「牯嶺街少年殺人事件」も併せて観ると、1960年代に「帰ってこなかった人たち」の背景が、少しわかる……かもしれない。
「返校」は人気ゲームを題材にしたホラー映画と聞いて、ゲームもホラーも嫌いだから、観ないかな……とぐずぐずしてた。確かに導入部にはゲーム的な気配があって乗り切れずにいたけれど、後に展開していく物語に引き込まれる。全編を通してやりきれない、「白い鹿と水仙」になぐさめられ、だから余計に悲しく、最後の場面に嘆息をついた。観て良かったと思う。
本を読んだだけなのに帰ってこなかった人たち、その記憶が、本を並べる書店と、本を読む人たちを支える強い気持ちと行動につながるのかなと、この頃考える。台湾に来て何がびっくりしたかって、書店で立ち読みNGどころか座り読みが許されていたこと。どんな格好をしても、本を読む姿勢にタブーが無い。
今となっては、それは反動なのではないか、と思っている。「きれいに考えすぎ、ただ単にお行儀が悪いだけです」と笑われるかな。
淡水を往復する電車の中で、池波正太郎の本を読んだ。
池波正太郎は時代小説を書くにあたって、古い地図を調べ、現代の街を歩き、この辺りか、あの辺りかと確かめたとエッセイに記している。池波の小説を読んでいると街の匂いや風、行き交う人や砂ぼこりも目の前に現れるような心地になるのは、歩いて確かめた下地があるからなのだと、改めて恐れ入った。
繰り返し読む本を持つこと。知らなかった物語に、はからずも出会うこと。友達とのおしゃべりの合間に、読んだ本の感想を語り合うこと。日常的な幸福は、選ばれて与えられた幸福なのかと思い知らされる。本やことばを取り上げられた時代は、私が生まれる前の出来事だったはず。なぜ今さら、この年になって、リアルタイムで身近に、目の当たりにしなければならないのか。淡水は眩暈がするほど暑くて、歩いている間はあまりあれこれ考えなかった。水分や塩分は汗で流れてしまい、涙も出なかった。
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