台北生活の日記

「風と共に去りぬ」配信停止に、白人だけが踊るダンスパーティを思い出す。

今朝、映画「風と共に去りぬ」の配信停止に関するニュースを見てから、何度も繰り返し見ていた映画「グリース」のダンスパーティで踊っているのは白人だけだったと、今さら気が付いた。

 

 

HBOマックスは歴史的背景に関する議論や説明を追加して配信を再開する予定だが、「差別は存在しなかった」と主張することになりかねないとの理由で編集は行わない意向を示している。(c)AFP/Andrew MARSZAL

米動画サービスが『風と共に去りぬ』配信停止 人種差別理由に
から抜粋

 

 

ニュースを色々読んでいるうちに、このページにたどり着いた。

 

タイトルがおどろおどろしい。読むのをためらった。でも思い切って読んでみて、驚いた。1956年のアメリカ・テネシー州の高校生、みんなリアルにフィフティーズファッション。車もワンピースもかっこいい。かっこいいけど、「黒人が同じ学校に来るのはいや」と大騒ぎをしている。

そういえば、1950年代のアメリカのハイスクール・ライフを舞台にした映画「グリース」も、登場するのは白人だけだった。学生も教師も、立ち寄る店の店員もみな白人。映画のハイライトともいえるダンスコンテストの長いシーンも、踊り狂い、ふざけあうのは白人たち。この映画で唯一登場する黒人は、コンテストのために演奏するバンド「シャ・ナ・ナ」のメンバーひとりだけだった。

「グリース」はどうやっても高校生に見えない俳優たちが高校生に扮し、ハイスクールライフを演じていた。酒タバコやり放題の女子高生とはいえ、ほうれい線や目じりにしわまでいくらなんでも出ないだろうし、ましてや夏休みの出会い、「思い出のサマーナイツ」を語るために一般的に歌い踊りはしない。「そんでそんで?」先を急かす聞き手たちが、「Tell me more」と声を揃えて大合唱をするはずもない。作り物なのだということは重々承知の世界。20代後半にして主役の女子高生サンディを演じるオリビア・ニュートン・ジョンの優等生っぽいワンピースや肩にひっかけたカーディガンとポニーテール、不良少年のダニーを演じるジョン・トラボルタの上目遣いの可愛らしさを愛でる映画なのです。

 

不良っぽいPink LadiesのリーダーRizzoは「先輩何回ダブったんすか」と聞いたらハイヒールで蹴飛ばされそうな貫禄たっぷり。サンディのふわっとしたスカートと対照的なタイトスカートにヒールの高いサンダルを素足に履くスタイルが、大人っぽくて好きだった。

 

資料を見ると、高校生を演じた俳優陣は、当時30歳前後だった。そんな彼女たちが繰り広げるパジャマパーティは部屋着もハリウッドミラーも壁に貼ったピンナップも可愛くて面白かったし、ダンスコンテストの乱痴気騒ぎは今観返しても「はめをはずしすぎだろ!校長先生、おつかれさま」と笑ってしまう。
でも、踊っているのは白人だけだった。私が子供心に憧れを抱いた「アメリカのハイスクールライフ」は、白人だけの世界のことだった。そのことに、私は今日まで全く気付かなかった。

1978年公開、1950年代のアメリカの高校生活を描いた「グリース」も、そこに黒人がいないということでは、差別的な作品なのだろうか。もしその点が問題になったとしても、「風と共に去りぬ」同様、編集は行わないでほしい。
「差別は無かった」
別の世界にするよりも、
「この当時は学校で人種隔離が行われていた」
と注釈が必要ならつけて、これが現実だったのだと、そのまま残しておく。将来、大人が見ても、子供が見ても「あれ?」と感じるきっかけになればいい。

本や映画は、見る人を映す鏡。
同じものを見ても、その時の年齢や場所、時代によって印象や感想が変化する。繰り返して見た時に、あの時は気づかなかったことに驚き、あの頃は涙した場面に鼻しらむことも、同じ場面で笑うこともある。私自身が自分の変化に気づくのは、ひとつの「作品」を改めて見た時に感じ、思うことからだった。だから「作品」には、どうか作られた時そのままで、手を入れないで欲しい。鏡に映る外観の変化は脳内補正してしまう。でも、ひとつの作品を通して知る自分の内面の変化に、補正はかからない。

それは極東にいる私が思うことであり、当事者には「この当時の現実」が娯楽として残るのは侮蔑的で、辛く、悲しいと感じる人もいるかもしれない。
ずっと以前に、香港人が私に広東語で「あなたたち日本人女性…」と言いかけてから、わざわざ「『架妹』は」と言い直したことがある。
「『架妹』という呼ばれ方は不愉快です。止めてください」
と伝えると
「どうして?❝ガームイ❞、響きが可愛いじゃない」
相手は謝りも訂正もせず、きょとんとしていた。
香港人が広東語で架妹と日本人女性を呼ぶのは差別用語ではなくても、私にはその呼び方に親しさや尊厳があるとは感じないし、響きを可愛いとも思わない。その呼称で呼ばれるのは不快だと感じる当時者と、呼ぶ人の悪気のなさの隔たりは、狭くてとても深いと感じた。台湾で日本人女性を「櫻花妹」と呼ぶのも、字面は一見綺麗だけど、私はちょっと気持ち悪い。外国人に、その国独特の言い回しで「日本人女性や男性」を表されるのは、たとえ悪い表現ではなくても、弄りまわされているような違和感がある。
そうはいっても、「妹」と呼ばれる筋合いもなくなった現在の私に、それらの呼称で呼びかける剛の者はいない。それは「先輩何年ダブったんすか」と聞けない ❝Rizzo❞ の孤独に通じているかもしれないな。初めて「グリース」を観た時は、彼女が寂しそうだなんて思わなかった。

 

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mimi
台北在住のライター/コーディネーター。 長年暮らした香港から、猫を連れて台北へ移住しました。 台湾と香港に関する現地情報の執筆や、撮影手配などの仕事をしています。 |Instagram| |Tweitter| |Profile| |Contact|