「今日はアンのどの場面を思い出しながら寝ようかなと考えれば、どんなことも乗り越えられる」
私がまだ子供だった頃に、母が言っていました。
赤毛のアン、私も読んだし、多くの人がそのお話を知っていると思います。
夜眠る前に好きな場面を取り出して反芻できるほど、母の頭の中にアンの物語が入っているとはいえ、引っ越しのタイミングで文庫本をなくしてしまったようで
「買ってきてあげる」
と駅近くの書店の棚にあった「赤毛のアン」をプレゼントしたのですが、母は顔を曇らせて「これじゃない」。
これ、赤毛のアンだよね?びっくりして数ページ読んでも母の「これじゃない」がわからず尋ねると「翻訳が違う」。
呆然としたものの、アンに関しては好きすぎてこだわりがあるのはわかっていました。1990年代に映画化された時に「観に行こうよ」と誘ったのに「あんな大ちゃんみたいなギルバートはいや」と怒り顔。テレビのCMで映画の予告編を見て、あのギルバートなら観ないと、がんとして譲りません。大ちゃんは私の友達で、大柄で太眉、屈託なく明るい見たまんま九州男児。ギルバートにどんなイメージを持っているか知らないけど、大ちゃんを引き合いに出さなくてもいいじゃないのと私が呆れ説教する始末でした。
映画化で、ギルバートでもこのありさまでは、文体にこだわるのは当然でしょう。調べてみて、母が読んでいたのは村岡花子さんが翻訳したものだと気づき、少し遠くの書店まで探しに行きました。母が喜び「ありがとう」と本を胸に抱いた顔は覚えています。
やれやれ、うちの母ちゃんすげえなと笑っていた私にも、うっすらと素養は受け継がれていると知ったのは、それから数年たった頃。サガンの本、私が読んだ朝吹登美子さんの翻訳版は、もう出回っていないと気づいた時でした。別の方が翻訳されているのを読んでみると、まるで違う語り口。タイトルも作者も同じだけれど別の物語に書き換えられているような違和感を覚えて、最初の数頁で読み進めるのを止めてしまいました。
私も自分が書いた文章を、台湾で中国語に翻訳してもらったことがあります。3人の翻訳家が同じ文章を訳したものを確認して、誰に依頼するかを決めることができました。渡されたサンプルを読んで驚いた。ひとつの原本から、3人が全く異なるリズム、行間、使われる単語も違う翻訳文をあげてきたのです。改変レベルになっている人は論外、これはひどいと感じたので黙っていられず、どうしてこうなったんですかと尋ねました。理由を返してきたけど、さらに全然通じていない。この人は無理だし許せなかった。私は、私のリズムをそのまま移し替えてくれていると感じた人にお願いしました。
翻訳って恐ろしい。日本の作家の中国語の翻訳版をいくつか読んでみると、表現、リズム、文章の流れに首をかしげることはありました。日本語をそのまま移し替えるのは不可能かもしれない。フランス語や中国語をこちらの言葉のリズムに乗せるのも難しそうです。自分の知らない言語にどんなふうに訳されているのか、実感として知ることができないのは怖いことではなかろうか。文体やリズム、全体の空気感が翻訳によって消えてしまう、変わってしまうのは、仕方のないことだろうか。
今の時代に、朝吹さんの文体は古いかもしれません。でも、サガンの小説に登場人物が手にしている「エビアン鉱泉水」、鉱泉水ってなんだろう。あのリズム、まだフランスの日常生活にあるものが日本には入っていなかった時代の説明が、私を遠い国の違う時代の物語に連れて行ってくれました。アンが用意していた「しょうがのビスケット」やダイアナが酔っぱらってしまった「いちご水」はいったいどんなものだろう。大人になってからエビアンやジンジャービスケットを初めて見て口にした時、物語の人たちに近づいたようで嬉しかったな。
村岡花子さんの翻訳の物語はドラマにもなったほどだし、これから先も彼女が訳したアンはスタンダードとして日本国内の流通に残っていくのでしょう。
私は私の本棚で、朝吹登美子さんが日本語に訳したサガンを残す。まだ裏側にバーコードがついていない文庫本は、もうぼろぼろです。でも、私はサガンを彼女の文体とリズムで訳した日本語を読みたい。ミネラルウォーターを鉱泉水と書き記す情緒が好きだから、決して手放さずに持っているつもりです。
今年の4月に亡くなった母の写真など思い出周りには、村岡花子さんの赤毛のアンを置きました。
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