台南から台北へ戻る高鐵の中で、友達に香港で起きていること、これまでにあったことを話した。
ドイツから初めて台湾に遊びに来てくれた友達。
彼女はテレビを持たない生活をしていて、主にラジオやネットでニュースを確認している。SNSのアカウントは持っているけれど、ほとんど投稿はしない。
彼女と私は、Facebookでも繋がっている。
私は香港のニュースを主にFacebookとTwitterでチェックして、SNSつながりの友人達に簡単な解説やコメントをつけて記事をシェアする。
理工大学の周辺で捉えられ、後ろ手に縛りあげられた人たちの画像が私のFacebookのタイムラインに流れて来てる。彼らはファーストエイド(救援隊)、怪我人を救護する医師や看護師であることを説明すると、彼女は高鐵のシートの中で弾けるように体を起こして私に向き直り
「こんなこと、許されるわけがない」
と彼女にしては珍しく、強い口調で言った。
彼女はこれまでも、私がFacebookにシェアした香港に関する記事を見ていたという。香港以外の、普段の投稿にも彼女は一切コメントや「いいね」などの反応は残さないから、私はてっきり彼女は何も見ていないのかと思っていた。
「見てるよ。でも、(ひどい出来事に対して)いいねをしてもいいのか、わからなくて…」
何百人かいるFacebookつながりの友人や知人の中で、香港に関する記事に反応をするのはだいたい決まった人たち。他の人たちは興味がないか、もしかしたら「うっとおしい」と私の記事を見ないように設定しているのかもしれないと思っていた。
でも時々、「いいねしない派」の友人から直接メッセージを貰う。仕事や子育てに忙しい人たち、立場上、政治的な事柄からは一切距離を置いて発言しない人たち、SNSには綺麗な楽しいことだけを発信するポリシーを守っている人たち。
「香港のこと、見ています」
「ニュースではわからなかったこと、報道されない細かいこと、知らなかったことがわかった」
顔を合わせておしゃべりしている時や、メッセンジャーを通じて、彼らは短く伝えてくれる。熱くなりすぎず、感情的にならない言葉だから、彼らが本心でそういってくれていると感じる。
私も以前は、SNSのアカウント持ったものの、使い方はわからず放置していた。Facebookを動かし始めたきっかけは2011年、東日本大震災。海外で暮らす日本人の友人達と「どうしたらいいの」「何が起きているの」「みんなの家族は、友達は」安否確認や情報収集、気持ちを吐き出し慰め合うような使い方から始まっていった。
SNSのアカウントは持っているけれど、どうやって使えばいいかわからない。
反応したり、投稿するのも苦手。
今でもそんな人は大勢いる。
投稿をして反応が無いと、誰にも響かなかったのかと寂しい気持ちになる時もある。
でも、「見ています」とそっと声をかけてくれる人もいる。
使い方がわからない、あるいは、わかっているからこそ黙っている人がいる。
中文大学で撒かれた催涙ガスが原因なのか、堕ちた小鳥たちの死骸もFacebookに流れて来ていた。友達はその画像に言葉を失い、今香港の空の下でどういうものがまき散らされているのかを知る。日本語や、ドイツ語では、もしかしたらニュースサイトには上がらないかもしれない。ニュースにはならない誰かの心に留まったことは、個人的に強く感じるものがあるかもしれない。私はそういうことを受け流さずに、掬い上げたいと思う。
反応ばかり気にしない。
ただ見てくれるだけでも、記憶の片隅に残って後から辻褄があう、そういうこともあるのだと、高鐵のなかで改めて知る。