ジョン・レノンがオノ・ヨーコとともに受けた最後のインタビューが行われたのは1980年12月6日。
私の手元にある文庫本、「ジョン・レノン ラスト・インタビュー/中公文庫 池澤夏樹訳」の中で、ジョンが香港についてほんの少し、でも大切なことを話しているので一部引用して紹介します。
インタビュアーのアンディー・ビーブルズは「ではお二人に最後の質問ですが」と問いかける。デヴィッド・ボウイが話したニューヨークの暮らしやすさについてのコメントを引き合いに
「最近のお二人はプライベートな暮らしと安全感についてどう思っていらっしゃいますか?」
「映画に行ったり、レストランに行ったりしていて気が付いたんだ、それまでーーーほら五年間はパンを焼いて、赤ん坊の相手をしていたんだからーーーいや、香港に行って町を歩いたからだ。それがどんなにすばらしいものかみんなにはわからないよ」
※参考文献:「ジョン・レノン ラスト・インタビュー」中公文庫 アンディー・ビーブルズ著 池澤夏樹訳
そのインタビューでは、イギリスやニューヨーク、インドやアムステルダムでの「世間に知られている」出来事にも語っているけれど、「最後の質問」に対してジョンが「香港」と話し始めたことに、読んでいて驚いた。
ジョンは1977年に、東京にいるヨーコに会いにいく旅の途中、香港に滞在したらしい。John Lennon’s choices of his Hong Kong tourで、その時の様子、幼いショーンと自由闊達、リラックスして微笑むジョン、1977年の香港の風景を見ることが出来る。
別の文献で読んだ記憶(何だったか思い出せない)では、ジョン・レノンが「香港では自分のことを誰も知らない」「レストランで注文したいのに店員に無視された」そんなことすら楽しんでいた様子が、印象に残っている。
ニューヨークに来るまでの7年間、ジョンは町を歩くことができなかった。どこへ行ってももみくちゃにされ、レストランに行けば馬鹿げた記事になる。でも、ニューヨークの人々には、ほどよい距離感と温かさがあった。この街では見知らぬ誰かにいきなり服をひっぱられることも、レストランで大騒ぎになることもなかった。
町を自由に歩く。多くの人が当たり前に享受していることを何年も出来なかったジョン・レノンは、その素晴らしさを香港で知った。それがニューヨークを選択したきっかけだったのだろうか。ニューヨークでの生活の権利を手にするまでの手続きも、とても大変だったらしい。どうしてそうなったのかは、ぜひ「ジョン・レノン ラスト・インタビュー」を読んでみてください。
このインタビューの二日後、彼はニューヨークの自宅前で銃で撃たれて亡くなった。それから39年後、2019年の香港ではあちこちで、彼の名前をつけた場所、「レノン・ウォール」が花開いた。そんなこと、1980年12月6日の夕方、長いインタビューを終えてお腹を空かせていたふたりは知らない。その日まだ子供だった私も、自由に町を歩けるのがどれほど幸せなことなのか、考えたことはなかった。自分が将来どこで生きていくかも、わからなかった。
でも今は、ニューヨークにも香港にも、街を歩いているだけでわくわくするような、湧きあがる力があることを知っている。
この街を歩く時はいつだって少し緊張する。そしてどの街よりも楽しい。アメリカでニューヨーク以外にこんな場所はきっと無いだろうし、アジアにも、香港の街にしかない力があることも知っている。ジョン・レノンが言ったことばの意味を知っている。町を自由に歩くのが、どんなに素晴らしいことか。
たくさんの人が、そのことを知っている。
香港で暮らしていた頃、クリスマスシーズンには毎年、街中でジョン・レノンの「Happy Xmas (War Is Over)」が流れていた。今年のクリスマスも、きっとどこかで聴けるはず。誰もが家族や友達と、大切な人と、たとえひとりだとしても、安全に、少しでも穏やかに過ごせることを願う。
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