今朝、抹茶を飲んだ。友達からもらった京都宇治のなにやらという小さな缶から抹茶の粉をそーっと茶わんに落とし、茶筅を使って自己流に、ぐるぐるとまぜただけ。
このあいだ、海外生活が長い友達に
「抹茶を貰うことがあるけど、どうしたらいいかわからないから冷蔵庫に入れっぱなしだ」
とぼやいたら、
「抹茶は朝飲むといいよ。なんだか視界が開けて、遠くを見渡せる気分になる」
と教えてくれた。
抹茶を貰っても、正直に言うと持て余してしまう。そもそもそれほど好きではないし、日本を離れて生活しているとはいえ、日本文化を珍しがる外国人化したと思われているんだろうか? せっかくのいただきものに難癖つけるなんて品性が劣ると恥じいる気持ちもあって誰にも言えなかったけれど、困ったなあと感じる本音が裏にあった。海外暮らしが長い友達なら、そこで愚痴に共感してもらえるかなあなんて思いが、あったのかもしれない。
朝から抹茶たてるの?どうやって?!と驚愕してたずねると
「適当でいいんだよー、お湯淹れて、茶筅もあるんでしょ?」
「ある、セットでもらった」
「適当にお湯淹れてがーってやればいい」
「その適当にがーっ、の加減がわからないのよ」
京都で暮らしたり何度も通ったとか、品の良いおうちで育ち抹茶をたてて飲む機会がある人に、この戸惑いはわからないかもしれない。私のように東京の普通の家、煎茶か麦茶が定番だった暮らししかしらない人間には未知の世界。中学校の修学旅行で訪れた京都の青蓮院で、畳に正座してかしこまってお茶をいただいたことは覚えてる。高校の近くにあった神楽坂下・紀の善で、抹茶と和菓子のセットを放課後に食べた気もするけれど、当時の私はその美味しさや意味を理解しなかった。
「煎茶ってどうやっていれたらいいの」と聞かれたらお湯の温度くらいは答えられるかもしれない。でも、抹茶を「適当に」といえるのは、抹茶を知っている人だからこそだと思うのよ。
台北の民生東路の住宅街に、モダンな台湾茶サロンがある。そこのオーナーは
「気軽に、作法を気にせずにお茶と楽しめるサロンを作りたかった」
と言っていた。「日本の茶道もそうかもしれないけれど、台湾でも、お茶を飲むことは厳粛で、かしこまったものと考えられがち。それでは次の世代にお茶の楽しみが伝えられないかもしれないから」と。
九份の茶芸館に日本の友達を連れて行っても、小さな茶器が厳かに並べられると、みんなちょっとかしこまり、「どうしたらいいの」と戸惑いはじめる。そもそも、家で急須を使ってお茶をのむことすらない人も増えてきたらしい。台湾茶の正式なお作法から外れたら、失礼にあたるかもしれない。恥をかくかもしれない。そんな気持ちのためか、なかなか急須に手を伸ばせないみたい。私はまず自分で淹れながらお湯の温度やお茶を出す秒数を話し、適当でいいんだよー、淹れてみてーとチャレンジしてもらっている。
「抹茶も封を切ったら刻一刻と質は落ちる。早く飲んであげて」
と教えてくれた友達のことばにちょっと目が醒めて、それからせっせと抹茶を飲んでいる。本当のところがわかっていないから、本職の人が見たら悲鳴をあげられてしまうかもしれない手つきで、適当にまぜるだけ。
朝に抹茶を飲むと、視野が開けて遠くが見える。その境地はまだ実感していないけれど、気分は良い。今度日本に行ったら、抹茶が飲めるティーサロンへ行ってみようかな。銀座の風月堂良かったけど、抹茶あるかな。
民政東路の台湾茶サロンでの出来事。