篠山紀信が撮影した宮沢りえの写真集「サンタフェ」が出たのは、1991年の秋。私が香港で暮らし始めた年でした。まだインターネットもない時代、雑誌や新聞文化が華やかで、日本のアイドルや俳優もよく知られていたから「あの宮沢りえが」と香港人も驚いていた。スターフェリー乗り場の前に並ぶ新聞スタンドで、コピーが出回るのも早かったな。
広東語で写真は「相」、「相片」といって、日本語の「写真」を広東語の発音で言っても現地の人たちには理解されなかった。
でも、あのサンタフェ旋風で「写真集」という日本語と概念が香港に入り、日本語の単語をそのまま広東語の発音で「寫眞集」と呼ぶようになりました。あれから30年以上たっても、「寫眞集」はまだ、香港や台湾では大人っぽい写真をまとめたものの代名詞のように受け止められているようです。撮影コーディネートの仕事でロケ地交渉をするとき「寫眞集」というと微妙な表情をしたり戸惑う担当者もいるので、「裸ではなくて、普通の写真です」と説明したり、あえて寫眞集ではなく「Photo book」ということもあります。
いまでこそ、日本語の単語で香港や台湾の中国語に溶け込んでいる言い回しはたくさんあります。でもあの年、1991年の香港で広東語もまだ覚束なかった私は、香港ローカルのテレビ番組でMCがいった「寫眞集」を聞き取れた時のことをいまだに覚えています。文化は海を越えて行ったり来たりできる、タイミング次第で新しい言葉になって別の土地に飛んで根付く、おもしろいなと思ったこと。
篠山紀信の撮った写真、あれもこれもと思い出します。
子供の頃に見たテレビの中のお姉さんたち。百恵ちゃんやミーちゃんやケイちゃん、石野真子ちゃんたちが、篠山紀信の写真の中では妖しく陰と光をまとっていて、テレビとは違っている様子にしばらく見入りました。でも、私が篠山紀信と名前を聞いてすぐ思い出すのは、佐野洋子や森瑤子のエッセイに出てくるカメラを持った気のいい青年。彼女たちの若いころからの仲間たち、交友範囲の中にいる、著名なアーティストとしての存在でした。森瑤子の遺影は、篠山紀信にあらかじめ撮らせて用意していたと読みました。森瑤子すげえ。そのすげえ森瑤子の遺影を撮り、香港に寫眞集という言葉と概念、文化を浸透させた篠山紀信はものすげえ人なのだと、訃報に接して思いました。
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