今日は私の猫、福ちゃんが家に来た記念日。
映えてみるか!と前日、旗などをこしらえ、いつもの鉢ではなく平皿にエサを乗せ、周りをちゅ~るでデコレーションしてみた。
完全なる自己満足。福ちゃんは怪訝そうに、遠くからじーっと見てる。旗を外してお皿を鼻先に持って行っても、匂いをかくだけで口をつけない。お腹すいているだろうから写真はそこそこに、いつもの鉢に移し替えると、安心して食べ始めた。
19年前のクリスマス、当時は香港に住んでいたので、湾仔にある香港愛後動物協会へ、猫を引き取れないかと考えて出かけた。白くてやわらかい、尻尾の長いメス猫がいいな。なんて思っていたら、理想通りの猫がいた。でも私より先に来ていた小さな男の子と若い優しそうなお父さんがその猫を見ていて、
「この子にしようか」
とお父さんが言うと、男の子は両手を挙げて躍り上がるようにして喜んでいた。
縁がなかった。仕方ないとあきらめて、地下鉄で佐敦へ戻り、家の近くの市場「新填地街」に寄って買い物をして帰る途中、通りかかった廣東道と西貢街の角にあった公園から、大声で鳴く仔猫の声を聴いた。
荷物を抱えたまま公園に入ってみると、ベンチに汚い仔猫が一匹。近くに親猫も兄弟もいない。どうしてここに一匹だけでいるんだろう。
あまりにも汚れているので触るのもちょっとためらうくらいだったけど、抱き上げたらぴたりと黙り、目を細めてうとうとしている。
お股を見るとほわっと毛羽だっているので、多分オスだろう。尻尾は短く、折りたたんだように曲がっている。思っていたのと全然違う。でも、愛護動物協会で縁がなく、寄り道してここを通ってひとりぼっちの仔猫に鉢合わせてしまったのだから、これは連れて帰る流れなのか。
しょうがない。「うちに来る?」と聞いても、仔猫独特の青い眼で私を見ながら、うとうとしている。
八百屋でセロリを包んでくれた新聞紙をはずして汚れた猫をつつみ、胸に抱いて帰ろうとすると、いつの間にか集まって様子を見ていた子供たちが「わーい」と躍り上がった。この日はやたらと、猫がらみで踊る香港の子供を見たなあ。子供って本当に喜ぶと踊るのね。
とにかくまずは獣医だろう。よく見ると、体中をのみがはい回っていた。すぐに行かなくちゃと家から近い動物病院を調べて電話をかけると、「もう昼休みだし夕方からの診察も予約いっぱい」と、ちょっと面倒くさそうに言われた。
「さっき猫を拾っちゃって。とても小さくて、生後何日なのかもわからない。のみだらけで汚いんです」
と伝えると、受付の人は改まったような口調で「すぐにいらっしゃい」と言った。面倒くさそうな様子から一転した熱意のある、きっぱりとした言い方だったから、印象に残っている。
タオルに猫を包みなおし、布バッグにいれて抱えるように佐敦道を歩いて、当時柯士甸道にあったその病院へ行くと、獣医さんは「生後三週間ぐらいだね」。体重を計りのみ取りの薬を与えてくれた。
家に帰ってトイレと寝床を作ると、寝床でシーとおしっこをしてしまった。野良だったのだから仕方ない。猫のおしっこを拭いたトイレットペーパーをトイレに置き、匂いをつけて「こっちでしてくださいね」と誘導すると、次からは小さな体でヨチヨチとトイレに行くようになった。「すごいね。おりこうだね」と感動した。
名前をどうしようか。クリスマスに来たから、ノエルかしら。いやこれはノエルって顔じゃないわ……翌日、福音の福ちゃんかな。とひらめいて、そう呼ぶことに決めた。
それから、台湾の友達に電話をかけた。近いうちに台北へ遊びに行くつもりでいたけれど、仔猫が来てしまったから行けなくなったと伝えた。
その時は、「なかなか台湾に遊びに行けない運命なのかもねー」と、名前をつけたばかりの仔猫をつつきながら考えていた。それから10年後、猫もろとも香港から台湾へ移住するとは、夢にも思わなかった。
こうして書いていると、あの頃は「縁」や「運命」といちいち考えていたことに気づく。
一応今日も記念日だけど、猫はデコったエサや旗には見向きもしない。いつものようにいつもの場所で出すものを普通に食べ、威張って私の座る場所を占領して眠る。いつもと同じ、ごく普通の一日だった。
19年前のクリスマスに仔猫を見て躍り上がっていた香港の子供たちも、もう大人になっただろう。きっとまだ猫と一緒に暮らしているだろうな。彼らはどんなクリスマスを過ごしただろう。